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目次

だんだん暗くなってきた。「もうすぐ祇園の宴が始まるね。」上の娘が言った。「夏の祇園のこの音色が聞こえて来ないようなところに住むなんて、わたしにはとうてい想像できない。それは、世界中、また二、三区画が違ってしまえば、同じ京都でさえ、許されないのだ。」"
出典:Alex Kerr氏著 - 『 Lost Japan

紹介

加茂川の両岸、三条通と四条通を含むこの地域が京都の伝統的な娯楽の場です。歌舞伎はここで生まれ、1500年代後半から、お茶屋が軒を並べ、芸者が行き交っています。先斗町の狭い路地には多くの酒場が立ち並び、夏には川辺で食事も楽しめます。一方、より西方―西は烏丸通、北は御池通、東は加茂川と南は四条通に囲まれた―の地域は、買い物客の天国で、客を熱狂させ続けるデパートや専門店があります。祇園さんとしてよく知られる八坂神社はその東側にあります。ここで祇園祭が毎年7月に始まり、また、毎年大晦日(12月31日)、新年を祝うための中心地でもあります。

八坂(祇園)神社 | 祇園祭 | 娯楽の場 | 先斗町 | 寺町 | 四条通での買い物

八坂(祇園)神社

円山公園と隣り合う四条通の東の端に、24時間休むことなく開いているこの神社は、京都で最も重要で、人気のある神社の1つです。地元の人々の間では祇園さんと呼び親しまれ、神道の神々、須佐之男命(スサノオノミコト)(天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟、皇族の神話の先祖で、乱暴で厄介者)と、彼の妻稲田姫命(イナダヒメノミコト)と、彼らの8子全員が祀られている。ここで覚えておくべき点は、須佐之男命が医学の神とみなされていることです。869年には数千人もの人々が流行病から抜け出すために、須佐之男命に祈りを捧げました。これが後に祇園祭(以下参照)となっていくのです。

    楼門: 楼門とは2階建ての門のことで、鮮やかな朱色の柱に、白塗りの壁で、四条通から続く階段の頂上にあります。それは室町時代(1338−1573)の様式で建てられています。両側には邪気からその地を守る門番、神道の仁王がいます。その門をくぐるとすぐに、高麗より伝来された獅子の石像があります。狛犬としてよく知られているその像は神社本殿に続く階段を守っています。

    拝殿: 拝殿(賽銭を奉る建物)は中心部の左側にあります。反対には、宗教儀式のための舞殿と、清めのための手水舎があります。ここにある建物のほとんどは1654年に再建されたもので、神輿(下記祇園祭参照)を収蔵するための神輿庫も含まれています。

    本殿: 本殿(神霊の広間)は最も重要な建物です。21 x 17.3メートル(約69 x 57フィート)のこの平屋建ては半分が隅棟、半分が切妻で、木でできた一枚屋根です。参拝者は先ず、本殿の前にある平たい形をしたガラガラ音が出るもので神を目覚めさせた後、お祈りをします。

八坂神社は京都市民にとても人気があります。新生児は登録のために八坂神社へ連れて行かれます。その時にはたいてい、正装の着物を着た祖母が赤ちゃんを抱いて行きます。子どもたちは七五三(7歳、5歳、3歳)参りに11月、八坂神社へ連れて行かれます。しかしながら、主な行事は祇園祭、新年、そして節分です。


祇園祭とその他の行事

祇園祭: 祇園祭は今から1100年以上前から続く祭りで、八坂神社が関わる行事のうち、最も壮大な祭りです。その起こりは869年の疫病でした。ときの八坂神社の大神官が神の怒りをなだめようと、その病の終息を祈り、市民の行列の先頭に立ち、町中を練り歩きました。すると、疫病はおさまり、それ以来、この祭りが伝承されて続けています。この祭りは毎年7月2日に始まります。この日、神輿(みこし)とよばれる移動可能な社が神輿庫より出され、神のご加護を受けます。最も大切な神輿は7月10日に加茂川まで運ばれ、大神官が執り行う儀式で清められます。その後、その神輿は川まで運んだ同じ若者たちの肩に担がれて、また八坂神社まで運ばれて行きます。7月10日には3つの神輿も八坂神社から市庁まで運ばれ、祭りが始まります。伝統的な出で立ちで、とても長い竿についた提灯を運びながら、参加者たちは行列の中で神輿を護衛します。そして、踊り組は市庁前で踊ります。祭りのメインは7月15日から17日です。最初の2日間は祭りの荷車が加茂川の西、四条通に結集されます。−このときには近づいて、よく見ることができます。毎晩、音楽と興があります。3日目の朝に行列が始まり、多くの荷車や神輿、他の山車が河原町通と御池通を練り歩きます。お金がかかりますが、御池通に設置された席を予約することができます。(急がなければなりませんが。)全体的に華やかで、感動的な祭りです。

大晦日: 新年への深夜のカウントダウンとそれに引き続き行われる初詣(一年の初めに神社を参拝すること)で一番人気の場所は、もちろん祇園さん、八坂神社です。本堂の見えるところでカウントダウンをしたいなら、午後11時30分には到着していなければなりません。(本当に寒いので、暖かい服装をしていきましょう。)ものすごい人込みとなりますが、祭りの雰囲気が味わえます。これのほとんどが若者達の集団です。0時の鐘がつかれると、本殿に向かってお賽銭を投げます。(賽銭箱に届く位近づこうなんてことは不可能です。)そして、そこからその人込みは円山公園へと殺到します。ここではビールが買え、大道芸人の音楽やダンスを見ることもでき(中には本当にいいものもあります)、祭りの雰囲気にどっぷり浸れます。やってみると面白いことの1つに、そこら中で売っている細いわらひもを1本買ってみるというのがあります。31日の午後8時から翌明け方までずっと、「おけら」と呼ばれるキク科の多年草を神社の提灯で焚き続けます。昔は、新年最初の食事を作る炉床の火のために、神社へ出かけて、そこの提灯からわらひもに火をつけて来たり、残り火をもらって来ようとする習慣がありました。聖火と雑煮とよばれる餅と野菜を煮たものの組み合わせは、その年を健康で幸福に過ごせるとされています。他たくさんのお寺や神社も一晩中開いていますから、もっと楽しみ、冒険するために、お寺/神社めぐりをします(燃えるわらひもを持って…)。二日酔いがひどくなければ、その次の日も八坂神社に行ってみましょう。たくさんの女性たちは着物を着て、舞妓(芸者の見習い)は黒地に白柄の着物で、髪には新年のしるしである稲穂をつけています。

節分: これは2月3日と4日、最も寒い冬の時期が過ぎ去り、春の始まりを祝うという行事です。鬼を追い払い、福を招き入れるために、煎った豆が撒かれます。4日の晩には八坂神社で大きなかがり火がたかれ、それが祭りの終わりを告げます。

お茶壷道中祭り: 5月2日に開かれ、茶を入れる筒(壷)を旅する祭りです。1868年の明治維新で権力を失うまで、歴代徳川将軍は宇治平等院などといった平安時代の建築のみならず、緑茶でも有名な場所)から茶屋に初摘みの茶葉を将軍の倉庫管理人に献上するよう(そうすることで、将軍が最も新しいお茶を飲んでいることが保証される)、要請していました。この茶葉は大きな陶器の入れ物に詰めて運ばれました。この出来事も今では、そのお茶が大和大路通沿いの建仁寺から四条通までを練り歩き、加茂川を渡って、八坂神社へ行くまでにとってかわられました。


遊びの場:歌舞伎、芸者、御茶屋

戦と破滅の世紀の後、豊臣秀吉の治世の下、京都は平和を楽しみ始めました。現在の芸者の宿所、御茶屋、劇場は1500年代後半から加茂川の両岸に現れて以来、ずっと同じ場所にあります。芸者、歌舞伎に関する詳しい情報は、 日本的出来事14号−芸者と、日本的出来事18号−歌舞伎をご覧ください。

御茶屋の中で最も有名なのはたぶん、四条通と花見小路通の角にある一力御茶屋でしょう。約300年の歴史を誇り、伝統的な建築と雰囲気、また、ここで起こった歴史のためにもこの御茶屋は存在し続けています。四十七人の浪人(主のいない侍)の有名な話と、明治維新で知られる革命を引き起こした徳川幕府に対する陰謀は、ここ一力茶屋と密接に関わっています。

京都のほとんどの御茶屋は、京都が再び戦場となった1864年の戦による壊滅的な大火の後、建て直されたものです。それら御茶屋のほとんどが木造で、伝統的な様式の2階建て、出窓がついています。その窓は1階にはベンガラ格子が、2階には簾が取り付けてあります。これらは客のプライバシーを守るためのもので、入り口には小さなカーテン(暖簾と呼ばれ、普通そこに御茶屋の名前が入っている)があります。よりプライバシーを守るために、「犬やらい」と呼ばれる竹の羽板で、1階の窓や壁を覆い、人目を避けています。

1712年、祇園の御茶屋は徳川幕府による芸者遊びの許可が与えられました。今日、100余りが残っていて、2、3の通り(主に白河と祇園)は保護されています。1976年、京都市政はついに御茶屋の建築遺産の破壊を防ぐことに着手し始め、7種の異なる装飾的な正面のための建築上の指針をうち出しました。その結果、京都が以前どうであったのかをうかがい知ることができる場所がちらほら、京都に残りました。京都は第二次世界大戦での戦火を免れたため、都市景観の破壊の全ては近年によるものです。

毎年11月8日の午前11時には、芸者と舞妓が詩人吉井勇(1886−1960)にささぐ石碑で茶会を開きます。その碑文は彼の詩の一つです。

かにかくに
祇園は恋し
寝るときも
枕の下を
水の流るる

それは、遊びの場所への彼の情愛と、伝統を続ける人々への敬意を記したものです。これは白川南通地域にあり、細い白川(運河)が平行して流れる通りです。そこは古い家と日よけのある伝統的な御茶屋地区です。だれかに尋ねれば、その日の茶会の場所が分かるはずです。言葉、費用、伝統、そして普段は多くの外国人がそういった演技を経験することができないある種の排他性を芸術としてみることは非常に稀な機会です。


Pontocho

先斗町は三条通から四条通の間にあり、かつては誰もが認める京都の赤信号地区でした。基本的には二本の細い通りからなり、一本はあまりにも狭く、歩道か路地にしかなりません。先斗町で知られるこの細い路地は加茂川と平行に走る石畳の通りです。砂州に建てられ、すぐに御茶屋、芸者遊びの拠点となり、よりみすぼらしい建物では、徳川幕府では禁制の、しかし十分実利的に許容されていた人身売買(娼婦、男娼)が行われていました。定期的に起こる火事で、家屋は一掃され、洪水で残りも基本的に流されてしまっていたのですが、現在では定期的な洪水も減り、先斗町は多くの古い建物を含んだ、高価なレストランやバー、ホステスのいるクラブ(芸者遊びに比べれば近代的でより低価)の拠点となっています。現在、売春は違法で、高級料理は違法でないため、前者は高瀬川(高瀬運河)の反対側にある四条通ショッピング地域と隣り合うわずかに安い不動産へと移動しています。

川沿いにある建物はたいてい戸外での食事を提供しています。夏の間、そのレストランから川の上に突き出た「床」と呼ばれる木の壇で、川の流れが運ぶ涼風を堪能しながら、食事を楽しむことができます。(川の水は、実は、食べている真下を流れているのですが。)食事中、加茂川の反対側から祇園の眩しい光が水面に反射をし、学生たちはそれぞれ花火を楽しみ、恋人たちは散歩をするなどなど、決して悪いようには夜を過ごしません。

その地区の2つ目の通りはより幅があり、浅瀬ですが高瀬川(高瀬運河)の暗い水で両断されています。この地区は明るいネオンのライトで灯されていて、多くのバーやレストラン(上品なものから品疎なものまで)、カフェ、飲み屋、ラブホテルなどがその西側の通り両側に並び、「夜のエンターテイメント」の幅を利かせています。そこは若者、大道芸人、長広舌者、酒場の用心棒などでごった返しています。

夜でないとき、まあはそういった情景にあまり興味がないようであれば、三条通の端にある先斗町歌舞練所を見に行くといいかもしれません。この劇場では茶会を体験できると同時に、1872年より春(4月から5月)と、秋・冬(10月から11月)に再び、鴨川踊りを提供しています。京舞で知られるこの踊りは、伝統的な芸者の流儀で舞われています。


寺町

文字通り「寺のまち」である京都のこの地区は1500年代後半、豊臣秀吉が京都に遷都して、京都がついに戦の世から復興し始めたそのときに、その名を得ました。1583年、秀吉は皆にとても好かれている多くの寺を、京都中心部の寺町通(ほとんどの寺が浄土宗)とかなり北に位置する寺ノ内通(主に日蓮宗)の2地区に移し始めた。戦、火事、時、そして商業化を奪い去ったにもかかわらず、多くは依然として変わらぬままです。

最も有名な名は本能寺でしょう。織田信長が家来の一人(明智光秀)の謀反によって殺されたのがここです。後に光秀は捕まり、彼の家族を斬らせられ、また彼自身も切腹させられました。現在、その寺は別の場所に建っていますが、信長の時代に建てられたのはそこから2、3北に入った通りにありました。

彼の後継者、豊臣秀吉は町の東端に守防の壁を建てましたが、これが現在の川原町通で知られる通りです。通りとして開かれたのは1868年の明治維新以降で、御池通と四条通の間で店が軒を並べる通りとなりました。ここはたくさんの小さな店やレストラン、劇場が立ち並ぶ娯楽エリアです。

このエリアで他に面白い場所が錦小路市場です。四条通のちょうど北に位置するところで、新京極通(錦天満宮)から高倉通(大丸百貨店近く)まで続いています。平安時代からここでは大衆市場が開かれておりますが、1500年代のひどい戦の最中には中断されていました。

キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルがこの時代にやって来て、

「京都は以前とても大きな町であったが、今では、永きに渡る戦を経験してきたこの惨事のせいで、そこはもう残骸とくずでいっぱいになってしまった。」

と書いています。

豊臣秀吉によって平和が取り戻された後、秀吉はすぐに市場を再建しました。“京都の台所”とよく言われるとおり、石畳のこの市場の通りでは120〜150もの行商人のような人々が新鮮な魚や野菜、乾物、練物や漬物、お菓子などを売っています。通常休みは水曜日ですが、魚屋は日曜日に休みを取ります。業者の威勢のよい声をを聞きながら、珍味を試食しながら、そのにおいと雰囲気を堪能します。


四条通ショッピング

加茂川から烏丸通までのエリア、だいたい四条通と御池通で縁を囲まれた辺りは京都での買い物の中心地です。百貨店に加えて、小さな店や専門店が山と並び、大きなアーケードもあります。そのアーケードは車など乗り物の進入が禁止された道路にかかっていて、天気を気にせず、歩いてウィンドウショッピングを楽しむのに最適です。アーケードは四条通と御池通の間にある寺町通にあるものと同様に、四条通と三条通の間にある京極通と新京極通にかかっています。

このエリアはまた、バスや地下鉄といった公共交通機関の便も良く、経路点としても最高です。様々な予算に応じて、全てが買えます。京都の店員さんたちを観察していると、自然にちょっとした人間ウォッチングにも絶好の場所となります。その上、たくさんの映画館やレストランもあります。(先斗町に最も近い細い路地には、ちょっとした赤線地区もあります。)

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