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法隆寺 仏教伝来の年については様々な説がありますが、538年とするのが有力説となっています。この年に百済の聖明王が、朝廷に仏教と経典を贈ったとされています。当時の有力豪族蘇我氏は積極的に仏教を支持し、しだいに皇室や豪族の間に行き渡っていきました。そしてその後約50年経った588年、蘇我氏は物部氏を倒して勢力を確立し、日本初の本格的寺院、飛鳥寺の造営を始めました。奈良盆地南部、飛鳥地方の仏教遺跡を訪ね歩く時には、その歴史の古さを知っておくことも大切でしょう。 法隆寺地域の仏教建造物は、世界遺産に登録されています。聖徳太子によって建立された創建法隆寺はいったん焼失しましたが、その後すぐに場所を北西に移して再建され、それが現存する法隆寺です。 法隆寺境内入口は、東、西、南にありますが、南大門は、最寄りの国道25号線バス停「法隆寺前」からおよそ400mのところにあり、法隆寺の玄関口となっています。南大門へ向かう参道は静かな並木道となっています。1438年再建の南大門は3間1戸の八脚門で単層入母屋造で、国宝指定建造物となっています。南大門をくぐった後も重要文化財指定建造物となっている壁が続き、左手には上大門、唐門を通して西園院庭園が見られます。この時既に、正面には中門の向こうに、五重塔と金堂が見えてきます。 塔は、仏教寺院において最も重要な建物とされているもので、法隆寺のものは日本最古の五重塔です。 最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊入滅、西面は釈尊仏舎利分割、南面は弥勒菩薩の説法が表現されています。 五重塔の右に見える重厚な建物が金堂です。飛鳥建築の雄といわれる金堂は、重層、本瓦葺きで、威風堂々とした姿をしています。ここには法隆寺の本尊が安置されています。日本最古の四天王像(国宝)をはじめ、徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(国宝)、太子の父である用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像(国宝)、母である穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像などが安置されています。建物の中は暗いため、仏像の姿がよく見えるよう、目がなれるまで少し待って下さい。 中門を出て東に歩き、僧房、妻室を過ぎて、倉、食堂の裏(北)に出ると、そこにはあざやかな朱塗りの大宝蔵院があります。この建物は1998年に完成したもので、法隆寺に伝わる百済観音像(国宝)を安置するために造られました。百済観音像を安置する百済観音堂を中心に、西宝蔵、東宝蔵から成っています。法隆寺の百済観音像は日本を代表する仏教美術で、フランスでも絶賛されました。 東西の宝蔵には、玉虫厨子(国宝)、夢違観音像(国宝)、橘夫人厨子(国宝)、九面観音像(重文)などの諸仏の他、百万塔(重文)、伎楽面(重文)など、法隆寺の歴史を物語る貴重な歴史財産が収められています。 もと来た道に戻り、歩を東に進めて東大門(国宝)を抜けると、そこからは東院と呼ばれます。西院と東院を隔てる東大門は中ノ門とも呼ばれ、三棟造りという奈良時代の建物です。 643年、蘇我入鹿に攻められた山背大兄皇子一族は斑鳩寺で自害し、聖徳太子一族は滅亡しました。そして斑鳩宮は、蘇我入鹿に焼かれました。その後、739年に行信僧都によって斑鳩宮跡に復興されたものが東院伽藍です。その中心となるのが最古の八角円堂夢殿(国宝)で、中央の厨子には聖徳太子等身といわれる救世観音像(国宝)をはじめ、東院を復興した行信僧都の像(国宝)、平安時代に夢殿の修理をした道詮律師の塑像(国宝)などが安置されています。夢殿の周りには、南に礼堂(重文)、北に絵殿・舎利殿(重文)、伝法堂(国宝)が配置されています。 中宮寺 東院伽藍の北東にある小さな門をくぐると、すぐ中宮寺に出ます。これは聖徳太子創建七ヵ寺の一つで、もともとは太子の母穴穂部間人皇后の御所であったものを、母の死後、寺としたのだと伝えられています。本尊の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)は、世界三大微笑(スフィンクス・モナリザ・弥勒菩薩半跏思惟像)のひとつと称されています。弥勒菩薩像と並ぶ中宮寺の見所は、天寿国繍帳です。これは、太子が往生している天寿国という理想浄土の有様を、妃の橘大郎女が、宮中の采女たちと一緒に刺繍したものだといわれています。平安時代には中宮寺は荒廃していましたが、鎌倉時代に興福寺の信如尼がここを訪ね、荒廃した寺を復興し、1274年に綱封蔵(国宝)から、飛鳥時代に作られたこの刺繍を発見しました。 アクセス - 法隆寺は奈良市街からさほど遠くなく、バスまたは電車で行くことができます。
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