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金閣寺、銀閣寺という名で良く知られていますが、実はどちらも俗称で、それぞれ鹿苑寺、慈照寺という名前があります。銀閣寺は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、古都京都の文化財のひとつとして、1994年に世界遺産に登録されました。

銀閣寺は、文明14年(1482年)室町幕府八代将軍足利義政により建立されました。東山慈照寺の名は、義政の法号慈照院に因んで後で付けられたものです。元々は寺院ではなく、義政が隠居生活を送るための山荘として造営した東山殿が、銀閣寺の始まりとなっています。義政は、祖父三代将軍足利義満の北山殿金閣(鹿苑寺)に倣ってこれを造りました。観音殿は二層、柿葺き、方形造りの楼閣建築で、下層は心空殿といわれる書院造風です。そして上層は潮音閣といわれ仏殿風になっています。1489年に着工し、1496年に完成しました。応仁の乱(1467-1477年)の直後という時代に隠居の場として造営されましたが、当時の財政は火の車で建設は捗らず、着工7年後にようやく完成しましたが、義政自身はその翌年に亡くなりました。

義政は妻日野富子に子供ができず、初めは妾腹の弟足利義視に将軍の跡目を譲りました。義視は早くから天台宗の浄土寺に出家しており、将軍になる気など全くなかったものの、義政から猛烈に口説かれ、それを引き受ける形で1464年に将軍になりました。この時義政は「今後自分に男子が生まれても、赤ん坊のうちに僧籍に入れ、義視の妨げにならないようにする」とまで約束し、義視は僧名である義尋を捨てて還俗、義視と名乗って将軍の跡目相続を承諾したのでした。しかしその1年後、1465年に日野富子が男子(足利義尚)を産んだため、後継者争いが始まりました。東軍に細川勝元10万余、西軍に山名宗全9万余の軍勢が四つに組んでの争いが11年間続き、京の都は荒廃してしまいました。これが応仁の乱です。

義政は、権益うごめく政治の世界から退き、隠栖生活を過ごすべく東山殿を造営しました。そして、自らの美意識の全てを投影して東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。義政は、政治を顧みず趣味三昧の生活をしたといわれています。造園、盆景、挿花など、日本人の自然に対する趣味の原型となったようなものは、義政のもとで広まったといわれています。そして、将軍の趣味は、大名、富豪、そして次第に一般にも広まっていきました。義政は、北山文化を東山文化へと発展させ、その後の日本人の芸術趣味のもとになるものを作り上げていきました。それは、日本の芸術・芸能に於ける幽玄趣味の確立であり、渋さの発見でした。義政は、銀閣寺の東山山荘で茶を通じて村田珠光と知り合いましたが、これが所謂茶の湯の始まりであるとされています。

義政は、その生涯を東山殿山荘造営に託しましたが、義政没後は、銀閣寺は荒廃していきました。室町幕府末期の1550年、三好長慶と15代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残しことごとく焼失しました。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなどし、室町幕府の衰退と共に慈照寺は荒廃していきました。江戸時代の初期1615年、宮城丹波守豊盛による大改修がなされ、現在見られる銀閣寺の姿は、この時の改修によるところが大きくなっています。銀閣寺は将軍の山荘として造営されましたが、改修に当たって、庭園や建築は禅寺として禅宗風の趣を取り入れて修復がなされました。

銀閣寺境内案内

総門から中門に至る長さ約50メートルの参道は銀閣寺垣と呼ばれ、竹垣で囲まれた細長い空間になっています。ここは、石垣、竹垣、椿の生垣が、美しい調和を見せています。中門で拝観料を払って、中に入ります。門をくぐると、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台が視界に入ってきます。左手に大きな庫裡を見ながら先へ進んで行きます。

宝処関をくぐって左に折れると、本堂前に出ます。本堂(方丈)は江戸中期の建造で、銀沙灘とは対象的に、堂々としてたたずまいを見せています。ここにはご本尊として釈迦牟尼仏が安置されています。本堂内部は一般公開されていません。

本堂前には白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があります。銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説がありますが、いずれも真相は定かではありません。

銀沙灘の白砂は、土俵の側面のような傾斜をつけて盛られています。上の表面は平らですが、盛られた形に添って等間隔に細く縁取られており、さらに縁取られた表面を幅広い直線の縞模様が走っています。これは抽象的な水の表現なのだといわれています。この縞模様は毎日手入れされます。いつ見ても見事な眺めですが、最も鑑賞に価するのは満月の夜だといわれています。月明かりに照らされた銀沙灘は、まるで静かで穏やかな夜の海の波紋の様相を呈しています。

本堂手前を左に折れ裏に向かうと、新書院が見えてきます。その途中には、東山時代の手法を見せた趣向あふれる庭園があります。新書院は平成5年11月、延べ10年の歳月をかけて完成しました。大広間には明治の世界的画家富岡鉄斎の襖絵が飾られています。新書院の隣には、旧庫裡の茶室集芳軒が移築されています。伝統的な寺院建築を踏襲しながら、新しい時代の慈照寺の象徴として一般に開放されています。

再び本堂前に戻り先へ進むと、東求堂(とうぐどう)があります。これは観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存する建物(1485年建設)で、国宝に指定されています。義政は浄土信仰の象徴として東求堂を建て、平生信仰していた阿弥陀如来をここに祀っていました。東求堂は一層の入母屋造・檜皮葺き(ひわだぶき)で、現存する最古の書院造りだといわれています(室町時代は禅院の居間兼書斎を書院と言った)。義政は、諸芸道の達人を東求堂に集め、芸術三昧の晩年を過ごしました。その舞台となったのが東求堂内の同仁斎(どうじんさい)と呼ばれる小室で、これが四畳半茶室の原型といわれています。

東求堂を過ぎると庭園に出ます。下段の庭から東部の山腹を登ると、庭園の上段には枯山水庭園があり、お茶の井と呼ばれる湧水があります。庭園には松、楓、槙が多く、紅葉の季節には庭園は鮮やかに彩られます。

義政は生来美的感覚に優れ、一代の趣味人でした。そして、周囲にには常に一芸一能に秀でた者が同朋衆として近侍していました。同朋衆は、当時の諸芸術に関しての制作、鑑定等にすばらしい実力を持っており、善阿弥、調阿弥、芸阿弥、相阿弥などの名前が、当時の文献の中に見当たります。中でも相阿弥は、作庭技術に傑出したものを持っていたと伝えられています。相阿弥は能阿弥の孫であり、芸阿弥の子です。松雪斎と号し、水墨画に長じていました。同朋衆は、足利氏の芸術生活を底辺で支えていた重要な存在でした。

銀閣寺庭園は樹木に覆われた山麓の庭で、その広さは約1万平方メートルあります。広い庭園の中で、池の水面にその姿を写す銀閣の代表的な写真は、錦鏡池越しに観音殿を眺めたものです。錦鏡池が庭の主要部であり、東求堂前の部分と銀閣前の部分に分かれています。接続部には龍背橋と名付けられた自然石の橋が架けられています。池の周囲には遊歩道がつけられ、樹木や石組の間を鑑賞しながら歩くことができます。池の中には、長寿の象徴である鶴と亀を表現した白鶴島と亀島が配されています。白鶴島には仙桂橋と仙袖橋が、そして亀島には迎仙橋という自然石の橋が架けられています。

錦鏡池南東端まで歩を進めると、洗月泉と呼ばれる小滝に出ます。ここから流れ落ちる水が、東求堂・銀閣のある下段の庭へと流れ、錦鏡池を満たしています。洗月泉の名前の由来は良くわかっていませんが、庭園は月待山麓にあり、この泉に映る月待山の姿と月の光景が、あたかも泉で月を洗っているかのごとく見えたのかもしれません。

最後に、慈照寺の象徴というべき観音殿(銀閣)を見てみます。義政公は自分の宗教観をこれに託し、一層を心空殿、二層を潮音閣と命名しました。絢爛豪華な鹿苑寺の舎利殿(金閣)と比較すると、銀閣は「名は体を表わす」とは言えず、銀箔に彩られた建物を想像していると、期待を裏切られるかも知れません。しかしながら銀閣は、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、その質素高貴な意匠が最大の魅力であり、唯一現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物として、貴重な世界遺産となっています。

場所:京都市左京区銀閣寺町
電話:075-771-5725
拝観:8:00-17:00(16:30下山):500円
交通:市バスNo.5,17,特17,203で銀閣寺道又は銀閣寺前下車

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