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当初建立されてからの200年間、ここには薬師如来がまつられ、吉祥寺とも称されていた。当時の造りは木と萱といった至って質素なものであったらしい。残念ながら、当時のまま今に遺されたものは何一つ存在していない。 その後の数百年間は、改革の時代、奈良時代を迎え、地元民にとっての崇拝の中心はここ吉祥寺となった。今日我々が目にすることの出来る寺は寛伝という名の僧によって建立されたものである。この寛伝は鎌倉幕府を築いた時の将軍源頼朝(1147-1149)の従兄であった。頼朝の一周忌の際、寛伝はここに禅寺(惣持禅院)の建立に着手し、そこに奉られている観音像の胎内に頼朝の遺髪と歯を納めたと伝えられている。 現在、この寺の本堂は鎌倉時代(1192‐1333)の完全なる建築様式の遺産として有名である。1222年にこの様式への再建がなされた。
3名はそこで儀式用の面−42歳の男子には祖父面、25歳の男子には祖母面、12歳の男子には孫面をつける。そして、30名の年男(祭りの行われる年の干支と同じ干支の年に生まれた男子、2001年は巳年、普通は成人男性が参加) も松明をもってその儀式に参加する。この祭りは春の訪れを告げる伝統的な宗教儀式として三河地方では有名である。 滝山寺には鎌倉時代の建築様式をもつ本堂、三門、そして将軍頼朝を偲び、彼の等身大に作られたという聖観音像などを含む数多くの国の重要文化財がある。
それぞれの像は287センチメートル(約113インチ)あり、15世紀前半に彫られた。残念ながら、この仁王像は損傷や破壊を免れるためワイヤー張りで保護されており、本当に間近で見ることは不可能である。祭りの際には寺の僧侶らによって編まれた新しい草鞋が仁王像の前に掲げられる。
しかし、梁の一つ、もしくは数箇所がどうやら逆さまらしいという噂がたち、飛騨の匠藤原光延もこの失敗を認めたらしく、それを恥じた光延は自害したという。その後、自害した場所では毎年椿が花を咲かせるのだが、実をなすことは一度もないという。今も三門の左脇には彼をまつったと伝えられる塚がのこされている。
東照宮の裏手には奥の院に続く小道がある。その標識によると、
「水にその身を変じた薬師如来の霊力が宿る水」がその大意である。森を通る遊歩道を300メートルほどいくと、そこには小さな祭壇もある。
アクセス: 名鉄バス上米河内行き滝山寺下バス停下車、徒歩10分。バス停からは左手へ向かって歩く。電話0564(46)2296(滝町)
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