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犬山城 現在犬山城は、木曽川南岸、断崖の上に立っています。その原型は文明元年(1469年)室町幕府管領、斯波義郷の家臣、織田広近が木曽川に望む三光寺山の頂に築いたものです。その後天文6年(1537年)に、織田信長の祖父、織田信康が現在の位置(愛知県犬山市大字犬山北古券65-2)に鎮座していた針綱神社を白山平に移し、その跡地に犬山城を築いたのです。現存最古と言われる犬山城天守閣は国宝となっていますが、建築当時の建物で現存しているのは現在の天守の1、2階部分で、その後3、4階が増築されたり改造が加えられたりしています。このように日本の城は、地震や火災で受けた損傷の修復や増築、改造を幾度となく経て現在の姿に至ったものが多いため、どの時点をもって完成とするか、はっきりと言い切ることは難しくなっています。従ってその城の古い新しいを語る上では、大いに議論の余地が残ります。 織田信康が犬山城築城後、何代か城主が替わり、関ケ原合戦(1600年)の時の城主は石川備前守貞清でした。貞清は、関ヶ原の合戦で石田三成に味方して西軍に加担し、そして戦に敗れたため、合戦後除封されることなり、犬山城は家康の治める所となりました。その後は、慶長5年(1600年)、松平忠吉の付家老小笠原吉次が入城し、次いで徳川義直の付家老平岩親吉が入りました。そして元和3年(1618年)、親吉没後、成瀬正成が3万石で入り、代々尾張徳川家の付家老として明治に至りました。明治4年(1872年)、廃藩置県で版籍奉還となりいったんは愛知県の所有となりましたが、明治24年(1895年)の濃尾地震で被害を受けたのち、城の修繕を条件として旧藩主成瀬正肥が城を譲り受け今日に至っています。昭和10年には天守が国宝に指定され、個人所有の城として全国で唯一の例となっています。 国宝に指定され、個人所有となっているものの、城内外を見学することが出来ます。城はそもそも敵襲をより早く視認できるように建てられているため、そこからの眺めは良好です。犬山城天守も標高40mほどの丘陵上に築かれているため、望楼からは濃尾平野、小牧市内、尾張富士等を一望できますし、天守そのものの姿もまた鑑賞に価する美しいものです。外観からは3階建てに見えますが、実際は地上4階、地下2階という構造になっています。 ここを訪れたなら是非その美しい天守の外観を味わって下さい。元禄年間にこの地を訪れた儒者荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、唐の李白の詩に「朝に白帝を辞する彩雲の間・・・」とある風景描写から連想して、犬山城を白帝城になぞらえたほどの名城です。 慶長4年(1599年)、木曽川上流にある美濃金山城が廃城になった際、金山城の天守櫓と家臣長屋を時の犬山城主石川貞清(光吉)が貰い受け、木曽川を下ってそれを運び、そして犬山城に移築しました。金山城が天文6年(1537年)の築城と伝えられているため、犬山城は現存天守閣の最古のものと久しく言われてきました。昭和10年(1935年)5月13日には天守閣が旧国宝に指定され、また昭和27年(1952年)3月29日には現行の文化財保護法に基づき国宝に再指定されいます。しかしながら昭和36年から40年にかけて解体修理が行われた結果、金山城移築説はほぼ否定されてしまいました。 犬山城の見どころはなんといっても現存天守ですが、天守内にも武具の間、破風の間、高欄の間など、各階毎にそれぞれ特色をもった展示物が並ぶ部屋が設けられ、一般に公開されているので見学することができます。最上階からの眺めは絶景で、木曽川を挟んで各務原方面を一望できるほか、東方には木曽山脈、北東には恵那山を眺望できます。南方には小牧や名古屋を一望に置くことができ、西に目を移せば岐阜城や伊吹山が視界に飛び込んできます。
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